おざく台キリスト教会

1971年に開所された教会です!

通常通り開く

18/07/2021

2021年7月18日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ③~平和・平安~」

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」  ルカの福音書

<キリストの平和>
 御霊の実(神が信仰者の内と外にもたらしてくれる性質。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5章22~23節より)の3つ目は、平安です。
このギリシャ語のエイレーネ、ヘブライ語でシャロームは、『平安』だけでなく、『平和』として多く翻訳され、『安心、安全、安らか、講和』、とも訳されます。
私達の毎日に平安や平和はあるでしょうか?また、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)とも言われます。私たちと出会った人は、平和を持つでしょうか?それとも?

 この平安、平和とは、単なる平安ではなく、キリストが持っていた平和、キリストが生きた平和であり、キリストが与えてくれる平和です。キリストは十字架にかかる前の夜、これから不安の中に飛び込む弟子達にこう約束しました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:27ではキリストの平和・平安とは何でしょう?

<神との平和>
キリストの持っていた平和とは、第一に神との平和です。
 私たちは平和・平安と聞くと、問題のない状態をイメージするかもしれません。けれど、思い出していただきたいのですが、イエス様やパウロ、使徒達の生涯は困難や問題にあふれていました。
 そうではなく平和・平安とは、状況でなく、関係を表す言葉です。ただ、波風がないことではない、状況に問題がないことではないのです。ギリシャ語で平和(エイレーネ)は、完全な者とひとつに結ばれる、一体となる、といった意味があります。嵐がないわけでなく、嵐の海の錨のように、困難の中でも、平和が、確かなものとの関係が、彼らをつなぎとめていた、そんなニュアンスです。
 イエスの生涯は、裏切られ、批判され、誤解され、攻撃され、私たちならたちまち平安を失うような、平和とは正反対の歩みでした。けれど、キリストは神との平和を持っていたのです。神との間に、断絶がない、衝突や恐れがない、むしろ、しっかりと結びついているそれが神との平和です。(状況に問題がないのでなく、神との関係に問題がない、ということです。)

 イエスと共に十字架にかけられた2人の罪人、この2人の姿は対照的です。
一人は「あなたはキリストではないか、自分と私達を救え。」言い換えるなら、自分を逃がしてくれ。状況を変えてくれ。彼の願いは自分の命が助かること、救いとは自分の状況が変わること。外側の変化を自分にもたらさなければ、イエス様に用はないのです。もちろん状況の変化を祈り求めることは間違いでない。しかし彼にはもっと大切なことがありました。どうでしょう。たとえ、今外側の状況が改善したとして命が助かったとしても、彼の本質が変わらない限り、内側の罪深い性質が変わらない限り、状況が変わってもまた同じことを繰り返し、似たような状況はまたやってくるのでは?

もう一人の人は、状況以上に、自分の本質・存在自体に危機を覚えていました。彼は命を助けてとは言っていない。期待していなかったのかもしれないが、死を前にして彼にはもっと大きな関心ごとがあった。それは自分がこの後どうなるか、ということ。自分自身を見つめて、自分を何とかしなくてはいけない、という自分自身への危機感でした。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」、と神とのつながりを、神との平和を求めた。そしてイエスは、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束してくださった。立派な行いではなく、信頼によって、恵みを受け取り、神と結ばれたのです。

<神との平和がもたらす平安>
クリスチャンとは、立派な人間でも、善良な人間でもなく、この神との平和(神との関係)に生かされた者です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ5:1(宗教Religionは、再び(Re)結ばれる(Ligare)、ラテン語が語源。)
パウロ書簡の全ては(ローマ、1,2コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、1,2テサロニケ、1,2テモテ、テトス、ピレモン)「恵みと平安があるように」、という挨拶から必ず始めたのです。

神との平和を持った私たちに、イエスが私の平安を残すと約束し、こう続けました。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16:33
 生きている限り、様々な嵐に遭うでしょう。しかし、神が共にいて、神の助けがある。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8:38~39さまざまな困難にも勝ち、死にも勝った方とのつながりの中で、私たちは嵐の中でも、恐れず、投げ出さず、逃げ出さずに歩んで行くのです。

おざく台の礼拝の最後、派遣の言葉では「平和とともに世界へと出て行きなさい。」と新しい一週間へとみなさんを送り出します。 神との平和を持つものとして、神の平安に生かされるものとして、平和をもたらすものとして、新しい週を歩み出せるように祈っています。

<今週の黙想> ローマ8章を読み、神の平和を味わい、毎日を始めてみてください。

2021年7月18日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ③~平和・平安~」

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」  ルカの福音書

<キリストの平和>
 御霊の実(神が信仰者の内と外にもたらしてくれる性質。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5章22~23節より)の3つ目は、平安です。
このギリシャ語のエイレーネ、ヘブライ語でシャロームは、『平安』だけでなく、『平和』として多く翻訳され、『安心、安全、安らか、講和』、とも訳されます。
私達の毎日に平安や平和はあるでしょうか?また、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)とも言われます。私たちと出会った人は、平和を持つでしょうか?それとも?

 この平安、平和とは、単なる平安ではなく、キリストが持っていた平和、キリストが生きた平和であり、キリストが与えてくれる平和です。キリストは十字架にかかる前の夜、これから不安の中に飛び込む弟子達にこう約束しました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:27ではキリストの平和・平安とは何でしょう?

<神との平和>
キリストの持っていた平和とは、第一に神との平和です。
 私たちは平和・平安と聞くと、問題のない状態をイメージするかもしれません。けれど、思い出していただきたいのですが、イエス様やパウロ、使徒達の生涯は困難や問題にあふれていました。
 そうではなく平和・平安とは、状況でなく、関係を表す言葉です。ただ、波風がないことではない、状況に問題がないことではないのです。ギリシャ語で平和(エイレーネ)は、完全な者とひとつに結ばれる、一体となる、といった意味があります。嵐がないわけでなく、嵐の海の錨のように、困難の中でも、平和が、確かなものとの関係が、彼らをつなぎとめていた、そんなニュアンスです。
 イエスの生涯は、裏切られ、批判され、誤解され、攻撃され、私たちならたちまち平安を失うような、平和とは正反対の歩みでした。けれど、キリストは神との平和を持っていたのです。神との間に、断絶がない、衝突や恐れがない、むしろ、しっかりと結びついているそれが神との平和です。(状況に問題がないのでなく、神との関係に問題がない、ということです。)

 イエスと共に十字架にかけられた2人の罪人、この2人の姿は対照的です。
一人は「あなたはキリストではないか、自分と私達を救え。」言い換えるなら、自分を逃がしてくれ。状況を変えてくれ。彼の願いは自分の命が助かること、救いとは自分の状況が変わること。外側の変化を自分にもたらさなければ、イエス様に用はないのです。もちろん状況の変化を祈り求めることは間違いでない。しかし彼にはもっと大切なことがありました。どうでしょう。たとえ、今外側の状況が改善したとして命が助かったとしても、彼の本質が変わらない限り、内側の罪深い性質が変わらない限り、状況が変わってもまた同じことを繰り返し、似たような状況はまたやってくるのでは?

もう一人の人は、状況以上に、自分の本質・存在自体に危機を覚えていました。彼は命を助けてとは言っていない。期待していなかったのかもしれないが、死を前にして彼にはもっと大きな関心ごとがあった。それは自分がこの後どうなるか、ということ。自分自身を見つめて、自分を何とかしなくてはいけない、という自分自身への危機感でした。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」、と神とのつながりを、神との平和を求めた。そしてイエスは、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束してくださった。立派な行いではなく、信頼によって、恵みを受け取り、神と結ばれたのです。

<神との平和がもたらす平安>
クリスチャンとは、立派な人間でも、善良な人間でもなく、この神との平和(神との関係)に生かされた者です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ5:1(宗教Religionは、再び(Re)結ばれる(Ligare)、ラテン語が語源。)
パウロ書簡の全ては(ローマ、1,2コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、1,2テサロニケ、1,2テモテ、テトス、ピレモン)「恵みと平安があるように」、という挨拶から必ず始めたのです。

神との平和を持った私たちに、イエスが私の平安を残すと約束し、こう続けました。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16:33
 生きている限り、様々な嵐に遭うでしょう。しかし、神が共にいて、神の助けがある。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8:38~39さまざまな困難にも勝ち、死にも勝った方とのつながりの中で、私たちは嵐の中でも、恐れず、投げ出さず、逃げ出さずに歩んで行くのです。

おざく台の礼拝の最後、派遣の言葉では「平和とともに世界へと出て行きなさい。」と新しい一週間へとみなさんを送り出します。 神との平和を持つものとして、神の平安に生かされるものとして、平和をもたらすものとして、新しい週を歩み出せるように祈っています。

<今週の黙想> ローマ8章を読み、神の平和を味わい、毎日を始めてみてください。

10/07/2021

おざく台教会毎日の聖書 7月12日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

7月12日(月)出エジプト記15章
26節「わたしは主、あなたをいやす者である。」
私達の心や考え、生活には、過去の罪ゆえの多くの傷や後遺症があり、時に痛んだり、膿んだりして、今も私達を苦しめています。また、傷のある人は、他の人を傷つけてしまうものです。ケガをした子どもが泣きながら傷口を親に見せるように、人々がイエス様に押しかけたように、あなたの傷口を神様に見せてみませんか?私達の神様は、癒し主なのですから。

「多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。」ルカ9章11節

7月13日(火)出エジプト記16章
4節「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。」
神は民を荒野へ導き、エジプトが与える食物でない、ご自身の食物マナをお与えになりました。私達も罪の与える楽しみでなく、「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:35)と言われた新しいマナ、キリストにより日々生かされ養われるのです。
魂が飢えてはいませんか?違う何かで、満たそうとしていませんか?キリストによる心の満たしを祈り求める一日としてみてください。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネ6章35節

7月14日(水)出エジプト記17章
11節「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」
手を上げる、とは祈りを表します。祈っている間は優勢なり、祈りの手を下ろすと劣勢になりました。戦略や武力よりも祈りが意味を持ちました。それは7節で「主がわたしたちのうちにおられるのか、おられないのか」と言って神を試みた人々への目に見える回答でもありました。私たちの信仰の確信は、困難や困窮に直面すると簡単に揺らぎます。そんな時こそ、神様に祈ってみてください。神様は必ず応えてくださいます。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」ヤコブ5章13節

7月15日(木)出エジプト記18章
8節「モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語った。」
困難ばかりに目がいく私達ですが、その困難から救い出す神にこそ目を向けたいのです。「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら・・」(ルカ11:34)とあるように私達の心や霊の健全さは、何に目を向けているかにかかっているのです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12章2節

7月16日(金)出エジプト記19章
17節「モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。」
神は恵み深い方でありながらも聖く偉大な方で、罪の汚れを持つ人間が近づくことは命に関わることでした。しかし、私たち自身の立派さによって神の前に立つのではなく、私たち自身の罪深さによって神の前に立てないのでもなく、「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」(エペソ3:12)今日キリストを通して、大胆に神に出会ってください。

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」第一コリント5章18節

7月17(土)出エジプト記20章
2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」
十戒は、神の救いの宣言から始まります。神の命令は救われる条件でなく、救われた者の新しい生き方です。救いが、恵みが、いつもあなたの前を先立っているのです。私達はこれから救われるためにではなく、すでに救われたからこそ、大きな愛と恵みに応え、神に喜んで従うのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」エペソ2章8~10節

7月18日(日)出エジプト記21章
14節「人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」
律法の端々に神の様々な配慮が見られる一方、厳しい言葉も語られます。それらの罪はあなた自身だけでなく、隣人を、共同体を破滅へと導く罪だからです。あなたは、神の民として、隣人と、信仰共同体と、深く強く結ばれているのです。同じ神様を信じる人の守りと祝福を祈る時を持ってください。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ5章15~16節

おざく台教会毎日の聖書 7月12日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

7月12日(月)出エジプト記15章
26節「わたしは主、あなたをいやす者である。」
私達の心や考え、生活には、過去の罪ゆえの多くの傷や後遺症があり、時に痛んだり、膿んだりして、今も私達を苦しめています。また、傷のある人は、他の人を傷つけてしまうものです。ケガをした子どもが泣きながら傷口を親に見せるように、人々がイエス様に押しかけたように、あなたの傷口を神様に見せてみませんか?私達の神様は、癒し主なのですから。

「多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。」ルカ9章11節

7月13日(火)出エジプト記16章
4節「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。」
神は民を荒野へ導き、エジプトが与える食物でない、ご自身の食物マナをお与えになりました。私達も罪の与える楽しみでなく、「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:35)と言われた新しいマナ、キリストにより日々生かされ養われるのです。
魂が飢えてはいませんか?違う何かで、満たそうとしていませんか?キリストによる心の満たしを祈り求める一日としてみてください。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネ6章35節

7月14日(水)出エジプト記17章
11節「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」
手を上げる、とは祈りを表します。祈っている間は優勢なり、祈りの手を下ろすと劣勢になりました。戦略や武力よりも祈りが意味を持ちました。それは7節で「主がわたしたちのうちにおられるのか、おられないのか」と言って神を試みた人々への目に見える回答でもありました。私たちの信仰の確信は、困難や困窮に直面すると簡単に揺らぎます。そんな時こそ、神様に祈ってみてください。神様は必ず応えてくださいます。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」ヤコブ5章13節

7月15日(木)出エジプト記18章
8節「モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語った。」
困難ばかりに目がいく私達ですが、その困難から救い出す神にこそ目を向けたいのです。「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら・・」(ルカ11:34)とあるように私達の心や霊の健全さは、何に目を向けているかにかかっているのです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12章2節

7月16日(金)出エジプト記19章
17節「モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。」
神は恵み深い方でありながらも聖く偉大な方で、罪の汚れを持つ人間が近づくことは命に関わることでした。しかし、私たち自身の立派さによって神の前に立つのではなく、私たち自身の罪深さによって神の前に立てないのでもなく、「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」(エペソ3:12)今日キリストを通して、大胆に神に出会ってください。

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」第一コリント5章18節

7月17(土)出エジプト記20章
2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」
十戒は、神の救いの宣言から始まります。神の命令は救われる条件でなく、救われた者の新しい生き方です。救いが、恵みが、いつもあなたの前を先立っているのです。私達はこれから救われるためにではなく、すでに救われたからこそ、大きな愛と恵みに応え、神に喜んで従うのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」エペソ2章8~10節

7月18日(日)出エジプト記21章
14節「人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」
律法の端々に神の様々な配慮が見られる一方、厳しい言葉も語られます。それらの罪はあなた自身だけでなく、隣人を、共同体を破滅へと導く罪だからです。あなたは、神の民として、隣人と、信仰共同体と、深く強く結ばれているのです。同じ神様を信じる人の守りと祝福を祈る時を持ってください。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ5章15~16節

03/07/2021

少し早いですが、明日の礼拝のメッセージです。
礼拝は、会堂(10名程)、ZOOM、電話(無料通話)で対応しています。お気軽にお声がけください。

2021年7月4日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ~喜び~」

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
ヘブル12:2

<悲しみの中の喜び>
今日は御霊の実(神が信仰者の内側で働いて生み出してくれる性質)の2つ目、「喜び」です。
 私たちは、たくさんの喜びがあると思います。何かを達成したり、願っていたものを獲得したり、素晴らしい体験をしたり、人間関係も喜びを与えてくれます。
では、キリストはどうだったでしょう。以前、聖書の会で、キリストの受難の箇所を読んでいて、「イエス様って、苦しみや悲しみばかりですが、何か良いこと、嬉しいこと、あったのでしょうか?」という質問がありました。確かに聖書を読んでいると、イエス様は「悲しみの人」(イザヤ53:3)と表現され、その歩みは苦しみ、批判、裏切り、乏しさに満ちていました。

 気になったので調べて見ると、こんな聖書の言葉が見つかりました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」ヘブル12:2
 イエス様の歩みには、悲しみや苦しみばかりでした。けれど同時に、イエス様の目の前にはいつも喜びがあったのです。だからこそ、悲しみに押しつぶされることなく、歩むことが出来ました。
嬉しい出来事や、良い状況で喜ぶのは簡単です。けれど難しい状況の中でも喜びがイエス様を支えていました。けれど、今日は状況によらない、イエス様の喜びに目を向けたいと思います。

<恵みに傾く喜び>
 イエス様の喜びの1つ目は、神に愛されている、神に喜ばれている喜びです。
イエス様がどんな働きも始める前から、神様は語りかけていました。「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」マルコ1:11
神は、イエスが何を成し遂げるか、何を獲得する課の前に、イエスを喜ばれた。そして、イエス様は、この言葉を胸に、その働きを始められたのです。そして、マタイは、イエスが神様から度々そのように語りかけられたことを記録しています(マタイ3:17、12:18、17:5)。
 イエス様は、どれだけ歓迎された時も、どれだけ批判された時も、一喜一憂せず、度々人々から離れ、神との時間を持っていました。もしかしたら毎日、神様からこの語りかけを聞いていたのかもしれない。
喜ぶという言葉は、いくつかあるのですが、ここでは、エウドケオー(尊く見る)が使われています。人の反応は変わります。持ち上げたり、批判したり、無視したり・・・けれどイエスは人が自分をどう見ているかではなく、神が自分をどう見ているかを気にかけました。そして、神が自分の存在そのものを喜んでいること、それがイエス様の喜びであり力でした。

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)という有名な言葉があります。この喜ぶはギリシャ語で、カイロ―、「恵み(カリス・カリタス)に傾く」、という意味です。自分で無理やり喜ぼうとするのでなく、喜びの根拠を手に入れるのでもなく、恵みに心を、魂を傾けることで、自然と湧きあがるものです。

 私たちは結果や状況に左右されます。ある時、イエス様は、お弟子さん達を町々に遣わし、弟子達は神様の力を体験して帰ってきました。その時、イエスは彼らを結果に左右されないように悟します。そして言うのです。「(結果を)喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜び(カイロ―)なさい。」ルカ10:20
 私たちは、どのような状況でも、神の恵みに心を傾けるのです。

<大切な働きをする喜び>
 イエス様は、神様の愛と同時にもう一つの喜びがありました。
イエス様は先ほどの事を言った後、でもそのあとで、自分は喜びに溢れて思わず感謝の祈りをしている。しかも、この喜ぶは、アガレアオー「すごく跳びはねる」という意味です。むちゃくちゃ喜んでいる。
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』」  マタイ10:21

 もちろん苦労もあった、大変さもあった。けれど、イエス様にとっての苦しみはただの苦しみではなく、産みの苦しみでした。それは同時に、産みの喜びでした。人が神様に出会うこと、神様の良い心が、一人一人に、実現していくこと、それをイエス様は心の底から、喜んだのです。
今日の聖書の言葉に出て来る、十字架もそうです。十字架は、苦しみの最たるものですが、神から離れ痛み悲しむわたしたちを、神様のもとへ取り戻したい。その願いと喜びをもって、誰が何と言おうが、十字架を耐え忍んでくださった。

私たちは、日常でも、(時に教会でも???)、こんなに苦労している、全然評価されない、たくさん我慢している、私は可愛そうであり、周囲の人は悪い、神様はひどい、そんなふうに思い、ため込んでしまいませんか?やがて何かのきっかけで、爆発してしまうこともあるでしょう。
 
 けれど、イエス様は違った。あれだけ苦労しつつ、理解しない弟子や人々や宗教家を、敵とはみなさなかった。相手の反応はコントロールできませんが、自分が仕えること、与えることが、神の良い心を行っているという喜びがあった。そして、弟子達が、人々が(自分の思い通りになるというのではなく)神様に心向けていくとき、嬉しさをこらえきれずに跳びはねて喜んだのです。

 恵みに心を傾けるなら、神の善い御心のために苦労するなら、イエス様を生かしたような誰にも奪えない喜びが、私たちの内にあるのです。その喜びに新しい週も生かされることが出来ますように。

<今週の黙想>ローマ5章や8章を、毎朝読んでみ、神の恵みに心を傾けてみてください。

少し早いですが、明日の礼拝のメッセージです。
礼拝は、会堂(10名程)、ZOOM、電話(無料通話)で対応しています。お気軽にお声がけください。

2021年7月4日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ~喜び~」

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
ヘブル12:2

<悲しみの中の喜び>
今日は御霊の実(神が信仰者の内側で働いて生み出してくれる性質)の2つ目、「喜び」です。
 私たちは、たくさんの喜びがあると思います。何かを達成したり、願っていたものを獲得したり、素晴らしい体験をしたり、人間関係も喜びを与えてくれます。
では、キリストはどうだったでしょう。以前、聖書の会で、キリストの受難の箇所を読んでいて、「イエス様って、苦しみや悲しみばかりですが、何か良いこと、嬉しいこと、あったのでしょうか?」という質問がありました。確かに聖書を読んでいると、イエス様は「悲しみの人」(イザヤ53:3)と表現され、その歩みは苦しみ、批判、裏切り、乏しさに満ちていました。

 気になったので調べて見ると、こんな聖書の言葉が見つかりました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」ヘブル12:2
 イエス様の歩みには、悲しみや苦しみばかりでした。けれど同時に、イエス様の目の前にはいつも喜びがあったのです。だからこそ、悲しみに押しつぶされることなく、歩むことが出来ました。
嬉しい出来事や、良い状況で喜ぶのは簡単です。けれど難しい状況の中でも喜びがイエス様を支えていました。けれど、今日は状況によらない、イエス様の喜びに目を向けたいと思います。

<恵みに傾く喜び>
 イエス様の喜びの1つ目は、神に愛されている、神に喜ばれている喜びです。
イエス様がどんな働きも始める前から、神様は語りかけていました。「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」マルコ1:11
神は、イエスが何を成し遂げるか、何を獲得する課の前に、イエスを喜ばれた。そして、イエス様は、この言葉を胸に、その働きを始められたのです。そして、マタイは、イエスが神様から度々そのように語りかけられたことを記録しています(マタイ3:17、12:18、17:5)。
 イエス様は、どれだけ歓迎された時も、どれだけ批判された時も、一喜一憂せず、度々人々から離れ、神との時間を持っていました。もしかしたら毎日、神様からこの語りかけを聞いていたのかもしれない。
喜ぶという言葉は、いくつかあるのですが、ここでは、エウドケオー(尊く見る)が使われています。人の反応は変わります。持ち上げたり、批判したり、無視したり・・・けれどイエスは人が自分をどう見ているかではなく、神が自分をどう見ているかを気にかけました。そして、神が自分の存在そのものを喜んでいること、それがイエス様の喜びであり力でした。

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)という有名な言葉があります。この喜ぶはギリシャ語で、カイロ―、「恵み(カリス・カリタス)に傾く」、という意味です。自分で無理やり喜ぼうとするのでなく、喜びの根拠を手に入れるのでもなく、恵みに心を、魂を傾けることで、自然と湧きあがるものです。

 私たちは結果や状況に左右されます。ある時、イエス様は、お弟子さん達を町々に遣わし、弟子達は神様の力を体験して帰ってきました。その時、イエスは彼らを結果に左右されないように悟します。そして言うのです。「(結果を)喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜び(カイロ―)なさい。」ルカ10:20
 私たちは、どのような状況でも、神の恵みに心を傾けるのです。

<大切な働きをする喜び>
 イエス様は、神様の愛と同時にもう一つの喜びがありました。
イエス様は先ほどの事を言った後、でもそのあとで、自分は喜びに溢れて思わず感謝の祈りをしている。しかも、この喜ぶは、アガレアオー「すごく跳びはねる」という意味です。むちゃくちゃ喜んでいる。
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』」  マタイ10:21

 もちろん苦労もあった、大変さもあった。けれど、イエス様にとっての苦しみはただの苦しみではなく、産みの苦しみでした。それは同時に、産みの喜びでした。人が神様に出会うこと、神様の良い心が、一人一人に、実現していくこと、それをイエス様は心の底から、喜んだのです。
今日の聖書の言葉に出て来る、十字架もそうです。十字架は、苦しみの最たるものですが、神から離れ痛み悲しむわたしたちを、神様のもとへ取り戻したい。その願いと喜びをもって、誰が何と言おうが、十字架を耐え忍んでくださった。

私たちは、日常でも、(時に教会でも???)、こんなに苦労している、全然評価されない、たくさん我慢している、私は可愛そうであり、周囲の人は悪い、神様はひどい、そんなふうに思い、ため込んでしまいませんか?やがて何かのきっかけで、爆発してしまうこともあるでしょう。
 
 けれど、イエス様は違った。あれだけ苦労しつつ、理解しない弟子や人々や宗教家を、敵とはみなさなかった。相手の反応はコントロールできませんが、自分が仕えること、与えることが、神の良い心を行っているという喜びがあった。そして、弟子達が、人々が(自分の思い通りになるというのではなく)神様に心向けていくとき、嬉しさをこらえきれずに跳びはねて喜んだのです。

 恵みに心を傾けるなら、神の善い御心のために苦労するなら、イエス様を生かしたような誰にも奪えない喜びが、私たちの内にあるのです。その喜びに新しい週も生かされることが出来ますように。

<今週の黙想>ローマ5章や8章を、毎朝読んでみ、神の恵みに心を傾けてみてください。

27/06/2021

おざく台教会毎日の聖書 6月28日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

6月28日(月)出エジプト記1章
12節「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった。」
この一文の背後には、ご自分の民を見捨てない神の助けがありました。苦しめられれば苦しめられるほど、神の御手はいよいよ強く神の民に伸ばされました。あなたも苦しめられていますか?同じ神の御手は今あなたに伸ばされています。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」第二コリント1章4節

6月29日(火)出エジプト記2章
23~25節「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」
民は「うめき、わめいた」のです。立派な祈りの形式をなしてはいません。しかし、その叫びは神に向けられていました。神は言葉にならない祈りを聞かれる方です。あなたの心は、叫びは、神に向けられているでしょうか?

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」エレミヤ書33章3節

6月30日(水)出エジプト記3章
12節「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」私達の神は派遣する神です。私達は、神の善い御心が行われるために(それを「神の国」と言います)、それぞれの場へと日々送り出されているのです。神に送り出されたあなたの場へ、今日もいってらっしゃい。一人ではありません。モーセと共にあったように、神はあなたと共にあります。

「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」詩篇121篇8節

7月1日(木)出エジプト記4章
11~12節「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
私たちは何ために口を、喉を、与えられたのでしょうか?神の愛を伝え、神の善い計画を分かち合うためです。今日、あなたの口を、神のために用いてみましょう。話すことに不安がありますか?大丈夫。神様が共にあり、その言葉すらも教えてくださるのです。

「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」ルカ12章11~12節

7月2日(金)出エジプト記5章
22節「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。」
神に従った結果、状況が悪くなったように見える時があります。しかし、それでも、神に従って歩むのを、諦めないでください。「わたしが・・・しようとしていることは、今にあなたに分かる。」(6:1)時が必ず来るのです。今の困難の先には、神の計画してくださっていた最善が待っているのです。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」箴言19章21節

7月3(土)出エジプト記6章
30節「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
悪魔は、自分や他人の弱さ、欠け、足りなさへと、目を向けさせます。一方、神はそれぞれの使命(7:1~5)へと目を向けさせます。あなたは、出来ない理由にばかり目を向けてはいませんか?もちろんリスク管理は大切です。けれど、それが神の使命を忘れさせてはいませんか?成し遂げてくださるのは、神なのです。

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」箴言21章1節

7月4日(日)出エジプト記7章
7節「彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」
サラの超高齢出産、モーセとアロンの晩年の働き、これらは人間の力によらず、神ご自身の御力が表されるためのタイミングでした。私達の生涯は、最初は知識や力など多くのものを手にしていきますが、やがてそれらが手から離れて行くことになります。
けれど、あなたの内に、周りに、力がなくなっても大丈夫です。頼りとなるものが失われ、神にしか頼れなくなった時こそ、神の力が発揮される好機なのです。

「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12章9節

おざく台教会毎日の聖書 6月28日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

6月28日(月)出エジプト記1章
12節「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった。」
この一文の背後には、ご自分の民を見捨てない神の助けがありました。苦しめられれば苦しめられるほど、神の御手はいよいよ強く神の民に伸ばされました。あなたも苦しめられていますか?同じ神の御手は今あなたに伸ばされています。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」第二コリント1章4節

6月29日(火)出エジプト記2章
23~25節「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」
民は「うめき、わめいた」のです。立派な祈りの形式をなしてはいません。しかし、その叫びは神に向けられていました。神は言葉にならない祈りを聞かれる方です。あなたの心は、叫びは、神に向けられているでしょうか?

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」エレミヤ書33章3節

6月30日(水)出エジプト記3章
12節「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」私達の神は派遣する神です。私達は、神の善い御心が行われるために(それを「神の国」と言います)、それぞれの場へと日々送り出されているのです。神に送り出されたあなたの場へ、今日もいってらっしゃい。一人ではありません。モーセと共にあったように、神はあなたと共にあります。

「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」詩篇121篇8節

7月1日(木)出エジプト記4章
11~12節「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
私たちは何ために口を、喉を、与えられたのでしょうか?神の愛を伝え、神の善い計画を分かち合うためです。今日、あなたの口を、神のために用いてみましょう。話すことに不安がありますか?大丈夫。神様が共にあり、その言葉すらも教えてくださるのです。

「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」ルカ12章11~12節

7月2日(金)出エジプト記5章
22節「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。」
神に従った結果、状況が悪くなったように見える時があります。しかし、それでも、神に従って歩むのを、諦めないでください。「わたしが・・・しようとしていることは、今にあなたに分かる。」(6:1)時が必ず来るのです。今の困難の先には、神の計画してくださっていた最善が待っているのです。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」箴言19章21節

7月3(土)出エジプト記6章
30節「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
悪魔は、自分や他人の弱さ、欠け、足りなさへと、目を向けさせます。一方、神はそれぞれの使命(7:1~5)へと目を向けさせます。あなたは、出来ない理由にばかり目を向けてはいませんか?もちろんリスク管理は大切です。けれど、それが神の使命を忘れさせてはいませんか?成し遂げてくださるのは、神なのです。

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」箴言21章1節

7月4日(日)出エジプト記7章
7節「彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」
サラの超高齢出産、モーセとアロンの晩年の働き、これらは人間の力によらず、神ご自身の御力が表されるためのタイミングでした。私達の生涯は、最初は知識や力など多くのものを手にしていきますが、やがてそれらが手から離れて行くことになります。
けれど、あなたの内に、周りに、力がなくなっても大丈夫です。頼りとなるものが失われ、神にしか頼れなくなった時こそ、神の力が発揮される好機なのです。

「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12章9節

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